はじめに 9 |
Ⅰ 犠牲の論理とレトリック 13 |
第一章 靖国と「ホロスコープ」 - 何のための「尊い犠牲」か 14 |
「尊い犠牲」というレトリック |
戦死を正当化する効果 |
「犠牲」という語の起源 |
イサク奉献の物語 |
復活したホロスコースト |
靖国参拝から実験動物慰霊式まで |
第二章 「英霊」顕彰の過去・現在・未来 31 |
大阪・台湾訴訟の背景 |
植民地獲得戦争の記録 |
「台湾理審」と「尊い犠牲」 |
「靖国の論理」は回帰する |
イラク派兵を正当化する「論理」 |
「国民精神」の意味 |
自衛隊員の死者はどう顕彰されるか |
第三章 ヒロシマ・ナガサキと「尊い犠牲」 - 抹消される責任への問い 52 |
国から顕彰される原爆死没者 |
原爆死没者も「尊い犠牲」? |
浦上の聖者 |
「原爆 = 紙の摂理」説 |
「燔祭」というメタファーの効果 |
アメリカの戦争犯罪が抹消される |
「聖断」神話への貢献 |
昭和天皇の戦争責任をめぐる問い |
第四章 「戦死者の大祭典を!」 - 国民動員のレトリック 77 |
『時事新報』論説の意義 |
「戦死者にこそ注目を!」 |
哀しみから喜びへ - 聖別のプロセス |
現実化した「大祭典」 |
「靖国の論理」の舞台裏 |
戦時中のみならず現代においても |
Ⅱ 国民・犠牲・宗教 - 「祖国のために死ぬこと」の歴史 97 |
第五章 犠牲に結ばれた「国民」 - フィヒテとルナン 98 |
「国民の論理」としての犠牲の論理 |
敗戦国民に向けた二つの講演 |
「日々の人民投票」か「言語」か - 対照的な国民定義 |
「自己犠牲の精神」としての祖国愛 |
「国民」概念の誤解 |
哀悼は義務を果たす |
共通要素としての「犠牲の論理」 |
第六章 哀悼と忘却の共同体 126 |
なぜ「忘却」が重要なのか |
悔悟するゆえのnation |
『敗戦後論』の主張 |
国民の側からの「哀悼の論理」 |
哀悼共同体が排除するもの |
第七章 神話化される戦争体験 - 近代ヨーロッパの「英霊」顕彰 138 |
第一次世界大戦後の英霊顕彰 |
哀悼と自尊心の混在 |
「靖国の論理」との共通性 |
戦争体験の神話化と凡庸化 |
神話化はいつ始まったのか |
第八章 〈真の犠牲〉から〈脱落した犠牲〉へ - カントロヴィッチの場合 154 |
ユダヤ人のドイツ・ナショナリスト |
英霊顕彰と殉教の関係 |
「尊い犠牲」の淵源 |
中世における変化 |
「祖国」に代わるもの - 封建制度とキリスト教 |
世俗国家が宗教的価値を帯びる背景 |
神秘体としての国家 |
自己犠牲の墜落 |
第九章 英霊の血とキリストの血 - 「殉国即殉教」という論理 180 |
仏教徒による「靖国の論理」 |
「尊い血」の意義 |
媒介としての「血の論理」 |
殉国即殉教 |
「国家教」の普遍性 |
Ⅲ 「犠牲の論理」は超えられるか 195 |
第十章 「正戦」と犠牲 - ウォルツァーの場合 196 |
正戦論が注目された背景 |
「戦争の正義」と「戦争における正義」 |
自衛戦争は犠牲を正当化する |
常備軍とは何か |
一割の犠牲を正当化する論理 |
第十一章 抵抗と顕彰 - 韓国の英霊 211 |
侵略と抵抗に共通する論理 |
ベトナム民間人虐殺問題 |
忠烈台と靖国橋 - 記念の政治学 |
「五月の英霊」 - 光州事件の記憶 |
第十二章 デリダと「絶対的犠牲」 226 |
犠牲なき国家と社会はありうるか |
人は絶対的犠牲から逃れられない |
戦争 - 犠牲のパラドクスの極大化 |
犠牲の廃棄への欲望 |
引用・参考文献 235 |
あとがき 237 |
はじめに 9 |
Ⅰ 犠牲の論理とレトリック 13 |
第一章 靖国と「ホロスコープ」 - 何のための「尊い犠牲」か 14 |
「尊い犠牲」というレトリック |
戦死を正当化する効果 |
「犠牲」という語の起源 |