内匠寮の人と建築 8 |
新たな伝統の創出という課題 |
幕末から明治へ連続性のある仕事 |
多様で質の高い皇室のデザイン |
三井本館から日本橋三井タワーへ-三井の生まれた場所 19 |
江戸時代の駿河町 |
三井組ハウスと為替バンク三井組 |
横河民輔による旧三井本館 |
関東大震災後の決断 |
壮麗・品位・簡素の三井本館建設へ |
都市の資産形成へ |
高度経済成長期における建築の破壊 |
新しい試みの方向 |
日本橋三井タワーの建設 |
ヒストリカルウォール |
明治生命館という建築 55 |
丸の内の開発 |
三菱二号館から明治生命館へ |
明治生命館のすがた |
邸宅建築からの出発-松田軍平という建築家 66 |
産声をあげたばかりの松田建築事務所を平田重雄が訪れる |
コーネル大学で学ぶ、ヨーロッパかアメリカか |
ニューヨークでの建築修業 |
アメリカ流スパニッシュ様式の洗礼 |
日本でのスパニッシュ様式 |
様式建築を高度に咀嚼した時期 |
明治初期の日本と外国の建築コネクション |
民間建築でのアメリカン・コネクションの優勢 |
豪壮で優美な伊豆・三井高修別邸 |
建築家としての運命的な出会い、久留米・石橋徳次郎邸 |
スパニッシュ様式に傾倒した松田軍平 |
麻布・石橋正二郎邸、モダーンへの転換 |
多様な様式が花開いた近代建築前夜 |
歴史の厚みをもつ設計組織へ |
数寄者とパトロン・棟梁と建築家 110 |
文化的アイデンティティのなかの「和魂洋才」 |
「政治的人間」としての山県有朋 |
無隣庵庭園と琵琶湖疎水 |
道具比べの茶事から作庭へ向かう |
東山を借景とした自然主義的な築庭 |
日清戦争の勝利と和風衝動 |
本物の水をとり入れた庭の楽しみ |
植治の庭が出発した京都の土壌 |
パトロンの文化を表現する数寄屋棟梁 |
渋沢栄一に贈られた誠之堂と晩香廬 |
三渓園と原富太郎 147 |
出自の風景 |
建物を移す |
大嶹製糸所の買収 |
三渓園の形成 |
三渓園の完成へ |
どこかに艶消しでソフトな-武田・田辺・藤井の世代 175 |
建築家の時代の区分 |
日本の建築家の変化 |
武田・田辺・藤井たちの世代 |
関西の土地柄 |
ゆるやかな過渡期 |
大江流、独自の境地を拓く作風 190 |
和洋に立脚した建築を意識する |
見えざる父の影の下で |
デザインの潔さはどこからきたか |
日本建築の正統を継承するために |
近代建築家による和風建築の到達点 |
東京郵政局の建築-小坂秀雄の信念 208 |
日本的「ドミノ」か |
昭和三〇年代の小坂秀雄 |
外務省とホテルオークラ |
小坂秀雄と丹下健三 |
主体的モダニズムの表現 |
内匠寮の人と建築 8 |
新たな伝統の創出という課題 |
幕末から明治へ連続性のある仕事 |
多様で質の高い皇室のデザイン |
三井本館から日本橋三井タワーへ-三井の生まれた場所 19 |
江戸時代の駿河町 |