第1章 ヴィトゲンシュタインのウィーン 9 |
2人の高校生 |
芸術の都ウィーン |
急に学校へ |
ウィーンのヒトラー |
家柄ゆえの悩み |
自分はなにをやればいい |
学校になじめない |
飛行機か、論理学か |
ラッセルのもとへ |
2人の写真 22 |
映画『ヴィトゲンシュダイン』 24 |
第2章 数学の基礎 25 |
現代数学の夜明け |
アリストテレスは偉かった |
三段論法 |
言葉と数 |
フレーゲの概念記法 |
無限のなぞ |
集合の濃度 |
対角線論法 |
無限集合が無限にある |
集合論のパラドックス |
論理主義 |
フレーゲに紹介されて |
フレーゲとラッセル 45 |
第3章 ケンブリッジの日々 47 |
突然の闖入者 |
論理がすべてか |
パラドックス |
タイプ理論 |
論理はなにを表しているのか |
天才か死か |
論理に関するノート |
未曾有の大戦争 |
物量作戦 |
伍長ヒトラー |
共産主義の脅威 |
共産党かナチスか |
第4章 『論理哲学論考』 67 |
かけがえのない世界 |
『論理哲学論考』のなかみ |
『論考』のエッセンス |
言語と世界は対応する |
要素はあるのか |
一対一対応 |
なぜ独我論なのか |
前期と後期の共通点 |
生きたい! |
トルストイの『要約福音書』 |
「沈黙しなければならぬ」は、禁止なのか |
戦争という罪を背負う |
神のいる場所 |
イエスのおもかげ |
不思議な沈黙 |
第5章 放浪の果てに 95 |
『論考』出版される |
小学校の教師になる |
哲学をやめ、哲学を生きる |
要素命題は存在しない |
言語はさまざまに用いられる |
存在と規範 |
ことばを、ものと結びつける |
ことばの見本 |
ヴィトゲンシュタイン・ハウス 108 |
石工とその助手の言語ゲーム 110 |
第6章 言語ゲーム 113 |
15年ぶりのケンブリッジ |
不思議な文体 |
超テキストを読む…言語ゲーム・その例…言語ゲームが“わかる” |
……(以下同様) |
できることと、説明すること |
たし算をならう |
社会は言語ゲームである |
石工と助手のゲーム |
ルールが意味を基礎づける |
感覚と言語ゲーム |
ふるまいの一致 |
私的言語について |
数列モデル |
規則をみる |
オーストリア国籍がなくなる |
ユダヤ人とは |
独身主義 |
狂気の全体主義 |
ヨーロッパの危機 |
第7章 ルール懐疑主義 145 |
意味と価値と言語ゲーム |
エイリアン? |
懐疑論との対決 |
クリプキのクワス |
木の葉が今日から青に |
ルール懐疑主義は正しいか |
見ればわかる |
奇則としてのナチス |
私には手がある |
疑うという言語ゲーム |
第8章 1次ルールと2次ルール 167 |
キリスト教から離れて |
ゲームとルール |
言語ゲームと論理学 |
ハートの法理学 |
書かれない法 |
審判とルールブック |
ルールと強制 |
価値はゲームに宿る |
厳密ルール主義 |
権威への服従 |
審判ムハンマド |
第9章 覚りの言語ゲーム 189 |
一神教から遠く離れて |
覚りをめざす |
覚りをめざす運動 |
『ゴドーを待ちながら』の原理 |
痛みと覚り |
大妄語戒のロジック |
自発性と強制 |
全員一致の原則 |
税か布施か |
部分ゲームと拡大ゲーム |
キリスト教とユダヤ教 |
大乗仏教の修行のルール |
第10章 本居宣長の言語ゲーム 207 |
忘れられた江戸時代 |
武士と儒学のミスマッチ |
朱子学のドグマ |
朱子学を批判する |
ルターと似ている |
儒学と国学の合わせ技 |
山崎闇斎の役割 |
宣長という人物 |
なぜ『古事記』か |
「道」論争 |
漢意とやまとごころ |
原初の共同体 |
天皇の正統性 |
天照大神は太陽か |
日本プレ近代思想 |
第11章 これからの言語ゲーム 233 |
前期vs.後期? |
「語りうること」 |
『論考』と福音書 |
信仰告白を語らない |
言語ゲームはすべてを語る |
冷戦とは何だったか |
大きな物語の終わり |
ポストモダンの行き止まり |
コミットしない |
相対主義 |
普遍思想はゲームである |
文明の衝突? |
言語ゲームは両立するか |
相対主義を超えて |
意味と価値の科学へ |
ブックガイド 260 |
あとがき 266 |