おちこぼれの小学生として 1 |
機械への好奇心 3 |
無線との出会い 5 |
第一の転機-楽屋への奉公をやめて高等小学校へ 8 |
良き師を得る-渡瀬先生のこと 10 |
教師へのあこがれ 12 |
科学に目を開かれる 13 |
東京高等工業学校へ-講義内容に落胆 17 |
転換 20 |
研究テーマを求める-中村幸之助先生の訓話 22 |
情報入手のために-語学習得に努力 26 |
ラジオ放送の先にあるもの 28 |
初めての外国旅行 30 |
写真電送 32 |
無線遠視法をいう「夢」 33 |
テレビ技術の原理的な難しさ 35 |
工業技術力水準というネック 37 |
出発 39 |
浜松高等工業へ 41 |
浜松高工の校風 44 |
「スキャンニング」に挑戦-鏡の利用 46 |
ベアードの発明とにポーの円板 49 |
さまざまなアイデア 32 |
電子式テレビの転換 55 |
ブラウン管に注目 57 |
セレニウム・セルの不効率 61 |
新撮像管のアイデア 63 |
挫折 65 |
受像用ブラウン管の原理 66 |
受像用ブラウン管試作第1号 68 |
結婚 70 |
機械式送像方式への一時的転換 71 |
同期方式のアイデア 73 |
大正天皇崩御の日に 76 |
特許申請とにがい教訓 80 |
人の像を映し出す 82 |
早稲田式テレビの登場と機械式テレビの発達 86 |
電子テレビ研究への確信 88 |
ブラウン管の改良-高真空化 92 |
現在の受像管の原理の完成 94 |
天覧 96 |
割れないブラウン管をめざして 101 |
人間の視覚の不思議 102 |
テレビジョン研究施設=電視研究室の設置 103 |
解像力の向上のために 106 |
広帯域増幅器の発明 107 |
実験放送と実用化への道 109 |
電源・電圧の改善 111 |
人間の眠に学ぶ-積分法の発明 114 |
積分法-製品化への困難 118 |
ツヴォルィキン博士の成功を知る 122 |
ツヴォルィキン博士と会う! 124 |
研究のしかたへの教訓-狭い「専門家」意識を捨てる 127 |
ファルンスワース氏と会う 129 |
ヨーロッパへ、そして帰国 130 |
全電子式テレビの完成-チーム研究の成果 132 |
東京オリンピックでの放送準備 135 |
研究開発体制 137 |
オリンピックの中止と実験放送 140 |
二度目の欧米視察 143 |
第二次世界大戦と研究の中断-電波兵器研究へ 145 |
戦争と工業力 148 |
戦後のテレビ再出発の挫折 149 |
テレビジョン研究者三〇人の職探し 151 |
日本ビクターへ 153 |
テレビジョン同好会 155 |
実験局の放送開始 156 |
残念だった標準方式決定の内容 158 |
本放送の開始-テレビ時代の開花 162 |
リニア・アクセレレーター 163 |
日米間の極端な特許差別 165 |
二つの技術導入 167 |
標準型受像機の決定 170 |
使いやすく故障しない受像機を 172 |
カラーテレビへ 174 |
カラーテレビ技術のむずかしさ 175 |
世界最高水準のテレビ技術の確立 178 |
ポスト・カラー-家庭用VTRの発明・開発 181 |
ビデオ・ディスクの開発 186 |
若き人々と共に 188 |
すばらしき映像への尽きぬ夢 193 |
テレビの発明・実用化の歴史 199 |